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【日本語訳】ナイガアンからLAへ:AGTのパフォーマンスが彼らの人生を変えるまで【V.Unbeatable/インタビュー】

AGT2019年4位・チャンピオンズ優勝でフィニッシュしたインドのダンスグループ「V.Unbeatable」。スラム街出身の彼らがAGTの舞台で栄光を浴びるまでの道のりをインタビューで紹介している。

 

ナイガアンからLAへ:AGTのパフォーマンスが彼らの人生を変えるまで

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ナイガアン…インドのマハーラーシュトラ州のバサイビラール市の近隣。

ムンバイのスラム街から世界最大のダンスリアリティショーまで。ナイガアン出身のダンスグループ「V.Unbeatable」が世界の舞台で活躍するまでの道のりだ。

 

「息子よ、勉強を止めろとは言わないが、いつか学費が払えなくなる時が来るかもしれない。」

約10年前、Masinagaon(インドのウッタルプラデーシュ州の小さな村)で自転車修理店を経営しているシャンカール・チャウハンは、10代の息子であるオム・プラカシュに、学費が払えなくなる可能性があると語った。

近くの公立学校でクラス10を修了したばかりのオムには、勉強をやめて父親の仕事を手伝うか、ダンスの夢を追いかけるかという2つの選択肢があった。彼は後者を選んだ。

10年後、オム・プラカシュ・チャウハンは、ムンバイのスラム街からやってきた30人以上の学生のダンスグループを率いており、最近、世界的に有名なオーディション番組であるアメリカズ・ゴット・タレントに参加した。

貧困から逃れるために家から逃げ出した27歳の彼は、「ついに父親に自転車屋から引退するように言うことができてうれしい。父がが実家に送金し、両親により良い生活を提供することだ。」

オムの人生における多くの決定的な瞬間の中で、重要な瞬間は、彼のダンスグループV Unbeatableが、アメリカズ・ゴット・タレントの観客と審査員からスタンディングオベーションを受けたときだった。

彼らのオーディションの様子は、2019年5月28日にテレビで放映された。 

12歳から27歳までの28人のダンサー(1週間前、ムンバイのバヤンダーとナイガアンの異なるスラム街から放たれた注目出場者)のパフォーマンス動画は注目の的になりました。(これまでにFacebookで2100万人以上が視聴しています)

 

オム・プラカシュの物語は、運命に挑戦し、未来をより良く、より明るく照らすために懸命に努力した何百人ものスラム出身の億万長者の代表です。では、どのようにして彼はそれを成し遂げたのか。これは、彼自身が語る今までの旅路だ。:

クラス10を終えた後、私は家を飛び出しムンバイに来ました。学位がなかったので、就職が大変でした。ここバヤンダーで仕事を見つけるまで、私はここにいることを誰にも言いませんでした。サングラスを売っている店で仕事を見つけるまで、私は小さないくつかの仕事をしていました。

数年前、通りから数人の男の子が来たことをきっかけに、b-boyingを練習するこの場所について知りました。私はダンスが好きだったので、彼らと一緒に練習を始め、動きを学びました。ダンススクールに通うお金がなかったので、教えてくれる人なら誰でもと、見たものから学ぶことができました。

それが私がビカスに会った経緯です。ビカスは一人っ子でした。彼の家族は、私たちと同じく経済的に貧しかったため、彼がダンスに打ち込むことを決して認めようとはしませんでした。

しかし、Vikasはいつも両親にこう言っていました。「いつか大きなリアリティ番組に出演した時、あなたたちを誇りに思う。」私がダンスで学んだことは、彼がいたからこそです。

 

ヴィカスと私は自分たちのダンスグループ「Unbeatable」を立ち上げ、自由時間にスラムの子供たちをトレーニングしていました。

2014年、ヴィカスは不幸な事故に遭い、命を落としました。それは私たちにとって大きな挫折でした。私たちのグループは崩壊しました。彼がいないと練習ができなかったのです。

彼の死後、彼の父親が私のところへ謝罪をしに訪れたのです。息子の夢を理解できなかったことを後悔していると言ったのです。彼の叶えられなかった夢を叶えるために、ダンスに戻るようにと励ましてくれました。私は気合を入れてみんなを集めて、ヴィカスの父親から聞いたことを伝えました。みんな目に涙を浮かべ、彼のために何かしたいと思っていました。

私たちのグループは、ヴィカスの名前にちなんで「V.Unbeatable」と名付けました。その日から私たちは、より一層の努力をして、何事にも手を抜かないことを誓いました。

 

私のグループのメンバーはみんな、経済的に厳しい環境に置かれています。

そのうちの一人はスクールバスの車掌として働いており、午後3時から4時までの休み時間を利用してダンスを習っています。

サンジェイは学校に通い、父親と一緒に花輪を売っています。毎晩、彼は理由をつけてナイガオンに来て、私たちと一緒に参加してくれます。ダンスプラスシーズン4のオーディションで、彼が自分の話をみんなにしたとき、観客として座っていた父親はショックを受けていました。「父によく「どこに行っていたのか」と聞かれていました。」と彼は告白しました。彼の父はうなだれていました。

リハーサル中にメンバーのスラージが寝ているのを見て、私は彼を怒鳴りつけました。彼はそれを黙って聞き、そしてどうすることもできない現状を呟いたのです。スラージの場合、両親から「君は働いて家族のために働かなければならない。」と断言されていました。朝は新聞配達、昼間は路上で服を売り、夜は私たちと一緒に練習に来ていました。「あなたのせいではないけど、どうしたらいいの、いつ寝ればいいの?」と彼は私に聞いたのです。私は彼に怒鳴ってしまったことを本当に後悔しています。彼は靴も普段履くサンダルすらも買えてなかったのです。

 

グループの一人一人には事情があります。ほとんどの親は認めてくれません。それぞれの家庭に経済的な事情があるのです。子供たちは、練習に来るために親に嘘をついています。勉強するか仕事をするかしか道はなく、ダンスは選択肢にも入らないのです。

グループに入ったら、練習には練習着を着なければならないというルールがあります。経済的に誰でも着られるわけではないのはわかっています。子供たちのために買ってあげることもありますが、全員の面倒を見られるほどの収入はありません。

この子たちはナイガオン駅(ムンバイ西部の郊外)から私たちの練習場まで人力車で行くのに10ルピーか15ルピーを払わなければなりません。

定期的に来る子供たちは35人近くいますが、他の子供たちは時間を見つけて通っています。しかし、イベントがあるときは、20人乗りのピックアップトラックを手配して、ナイガオン駅までの送迎をしています。

ダンスプラスのオーディションに合格した時は、私たちにとって大きなチャンスでした。フェイスブックのページを作ったり、自分たちの動画をソーシャルメディアでシェアしたりしました。

観客からもたくさんの応援や励ましがありました。もしかしたら、アメリカの誰かが私たちのビデオを見て、私たちを出演させるべきだと判断してくれたのかもしれません。

 

2019年5月、AGTのチームからカリフォルニアのオーディションに来てほしいとメールが来ました。私は信じられませんでした。誰かのイタズラだと思ったほどです。もう一度メールを読み返しても、現実だとは信じられませんでした。

嬉しかったのと同時に他にも色々と問題がありました。

メールにはグループで20人までと書いてあったのです。私は番組に電話をして、パフォーマンスを成立させるためには最低でも30人は必要だと説得しました。最終的に28人で話がまとまりました。

また、チケットを予約するお金がないことを伝えると、ビザとチケット代を負担してくれることになりました。しかしそれはオーディションに受からなかったら、お金を返済しなければならないという条件付きでした。それは私たちにとって大きな負担でした。往復のチケット1枚で約65,000ルピー。ビザの費用と合わせて約2万ルピーになる。この話をメンバーの家族や両親に伝えたところ、協力してくれる人はごくわずかでした。彼らのほとんどは、わざわざそこまでして出演する必要はないと考えていました。

私はどうにかして、子供たちを練習に参加させるように説得しました。準備期間は10日しかありませんでした。決してあきらめず、1日16時間練習をこなしました。

私は自転車を売り払い、友人からローンを借りて、彼らのパスポートを取得しました。ビザの面接に行ったとき、私はすべてを賭けました。全員で面接に行きましたが、私だけが中に呼ばれました。彼らは私にいくつかの質問をしましたが、私はそれにしっかりと答えました。ビザは数日以内に承認され、私たちはついにアメリカに到着しました。

その後のことはすべてうろ覚えです。

法的な契約に縛られているので、お話しできないこともあります。

オーディションには世界中から4万人以上が応募していました。インドのチームは2チームだけで、私たちはそのうちの1チームでした。父はオーディションの映像を見て、私のことを誇りに思っていると言っていました。そうだよね、ここまで来るのに10年かかったんだ。この苦労を無駄にはさせないと言ったんだ。今、私たちがいるこの旅は、世界中のヴィカスのような何百人ものダンサーの夢なのです。

成功した者もいれば 失敗した者もいる。でも私は諦めません。この数年で多くのことを見て耐えてきました。AGTの次の数ラウンドを乗り切れるかどうかは時間の問題ですが、私たちを信じてくれていた人たちのためにも、これを成功させたいと思っています。この夢を支え、全てを犠牲にしてくれた子供たちに、より良い人生を与えたい。彼らが200パーセントを捧げてくれたからこそ、私たちはこの物語を世界に伝えるために生きることができたのです。

そして今日、世界中から電話がかかってくるようになりました。私は彼らに「みなさんの愛に感謝しています。夢は始まったばかりです。応援してください』と伝えたいです。